ニコニコ動画の生成する空間―――ラジオ、テレビとの比較考察―――

もう少し考察を色々やってみた。社会学を副専攻にしたいね(副専攻っていうシステムがあったらの話だけれど)。

ニコニコ動画において、コメントは動画そのものに埋め込まれているわけではなく、動画の上に重なって存在している。図解するとこんな感じ。

サーセン、まだ描けてません)

この原理の図解と同様に、ニコニコ動画におけるユーザーの一体感はその動画上とモニタの間に、コメントに媒介され存在するように見える。これはテレビやラジオと対比してみるとわかりやすいだろう。


ラジオではコンテンツの中で一体感が生成される。リスナーからのお手紙はパーソナリティを媒介としてコンテンツの中に生じる。
テレビはラジオと対照的にブラウン管のこちら側、視聴者側に一体感が生じる。それについてはRealty TVの特徴などを参照してもらえばよいだろう。

(詳しく述べよう。90年代以降のテレビはテレビ性を強調してきた。スタジオの映像や盛んに提示されるテロップがその例になるだろう。そして(自覚してるかどうかはわからないが)「今自分(視聴者)はテレビを見ている」「そして、テレビは多くの人が見ている」という論理により、視聴者は他の視聴者との擬似的な繋がりを得ている、ということだ)

これらの一体感はラジオとテレビが伝える物の違いによるのだろう。
ラジオは音声だけしか伝えられないメディアであり、テレビは映像を伝えることを主としたメディアである。ラジオでは身体の不在は問題ではなく、身体がなく、言論だけでもコンテンツの中に入り込み、一体感を作り出すことができる。しかしテレビにおいて言論だけというのは浮いてしまう。コンテンツの中において身体という実体が必要となってくる。いかに言論をお便りとして送ったからといって、他のコンテンツの構成物たる出演者が身体をもってそこに居るのに対すると、言論だけでは負けてしまう。
だからコンテンツの中では一体感を得ることは出来ず、コンテンツの外側での一体感を得るようなものにテレビは成ってきたのではないだろうか。

(とすると、地デジやらで、双方向の情報のやり取りが出来るようになったからといって、結局テレビはネットに勝てないんじゃないかなあ…)

で、ニコニコ動画に戻すと、ラジオ・テレビの中間のようなところ、コンテンツの外側であり、モニタの内側であるトコロにコメントがあり、そこで一体感が生じている。

これは言ってしまうと弁証法的な結論なのかもしれない。
一体感を得られる度合いで言うとテレビよりラジオの方が強い。というのも、パーソナリティを媒介として、という時点で少なくとも2人の人物の間で意思疎通が出来ているからだ。対してテレビだと、テレビ性の強調により、擬似的な一体感を得られたとしても、ブラウン管の前でテレビを見ている自分が独りであることに変わりは無い。他の誰かが同じ番組を見ている、といった確証を得ることは不可能だ。
しかし、供給できるコンテンツ量で言うとテレビは、映像を使えるという点で強い。

ニコニコ動画における一体感は、テレビにおける一体感よりも強い。ニコニコ動画ではコメントにより、他者が確かに居ることが実感できる。そして、映像もニコニコ動画は供給できる。一体感とコンテンツ量という観点について、ラジオとテレビの間にある、そんな感じ。

また、これはヘビーユーザーに限った話であるが、次のことも考えられる。
ラジオでハガキ職人になるのは敷居が高いが、ニコニコ動画コメント職人になるのは努力と練習さえつめば誰でもなることが出来る。ラジオでパーソナリティにハガキを読んでもらう為には、他者の目に留まり、選んでもらわなければいけない。しかし、ニコニコ動画でコメントを貼り付けるのは誰でも出来ることだ。